上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2692.jpg

中山 雅史(なかやま まさし、1967年9月23日 )


御存知 ゴン中山!ジュビロ磐田所属。ポジションはFW。
ゴールへの嗅覚にはすばらしいものがあり、
ゴール際での反応速度は世界トップクラス。
ギリギリのボールにも反応してゴールしようと試み、
少々のトラップミスも自らすぐに取りに行く、泥臭いゴールが良く似合うストライカー。


また、下手なタレントやアナウンサーでは太刀打ちできない巧みな話術を持っており、
場を盛り上げる技術の高さや軽快なトークはテレビなどでもおなじみである


1984年 藤枝東高校のエースとして活躍
1986年 筑波大学に進学


1990年 ヤマハ発動機に入社、サッカー部に入部。
当時はまだ実業団で、サラリーマン生活も経験。


1992年 広島で行われたアジアカップに日本代表として召集。
スーパーサブとして優勝に貢献する。
インタビューで「スーパーサブの立場とは?」と聞かれ
「僕はチームが下痢のときと便秘のときだけ使われる」
と答えている。


1993年 ヤマハ発動機サッカー部改め「ジュビロ磐田」が旧JFL1部在籍にもかかわらず、
中山はワールドカップ予選の日本代表に選抜。
この時「中山選手にとってW杯とは?」と聞かれ
「僕にとってW杯は、もうDカップやEカップなんて問題じゃない大きさです。なんせWカップですからね」
と答えている。


アジア最終予選では途中からスタメンに定着して獅子奮迅の活躍を見せる。
しかしイラク代表との最終戦で試合終了間際のロスタイムに
イラク代表チームの同点ゴールが入り、日本の予選敗退が決まった
「ドーハの悲劇」は有名である。


03103101doha_KYODO_MT217A30.jpg


また予選中その陽気なトークや熱意剥き出しのプレーがマスコミで話題となり、
一躍全国区の人気者となる。
またこの年、ジュビロ磐田は旧JFLで2位となり、
一年遅れながら悲願だったJリーグ昇格を果たす。


1997年 ワールドカップの日本代表の予選突破に貢献。
ジュビロ磐田のリーグ初制覇に貢献。


1998年 フランスワールドカップ日本代表に選出。
予選リーグで敗退したものの、3試合全てで先発し、
ジャマイカ戦で日本代表のW杯初ゴール・日本人初ゴールを決める。


 02051801nakayama_shootMT234510.jpg


中山は気力だけで戦い続け、相手選手との接触で
脚を骨折しながらもゴールを決めたことに日本中の誰もが感動した
(しかしこれは誤解で、骨折したのはゴールを決めたあと)
その脚で試合終了まで走り続けた事は、日本代表としての誇りと魂の象徴として、
今も語り草になっている。
本人は
「骨折しても走れるんだっていう事と、僕が感じたのは ”骨を折ってまで走ってはいけない” という事ですね。良い子はマネしないように」と語っている。 


また、同年のJリーグでは得点王を獲得。
4試合連続のハットトリックを記録し、ギネスブックに掲載された。


2000年 アジアカップ予選の対ブルネイ戦において、
試合開始3分15秒でハットトリックを記録し、
国際試合における最短ハットトリックとしてギネスブックに掲載された。
Jリーグでは自身2度目の得点王を獲得。


2002年 日韓W杯日本代表に選出される。
日本代表のワールドカップ初勝利となったロシア戦では後半途中からピッチに立つ。


同年、Jリーグの試合中 ジュビロ磐田のDF鈴木秀人選手がぶち切れて審判に暴言。「このアンポンタンがっ!」
胸のポケットに手を入れてながら鈴木選手ににじり寄る審判。
慌てて2人の間に入る中山雅史選手。
審判にむかって一言
「僕がアンポンタンですっ!」
その必死の形相とタイミングのよさに審判も苦笑い。
鈴木選手はカードをもらわずにすんだ・・・


2007年 40歳となる彼は、現在もジュピロ磐田で活躍中である。


Jリーグ通算 309試合 154得点


日本代表 53試合 21得点         (2006年12月30日 現在)


 


 


下の写真は来期J2の東京ヴェルディでプレーすることになった同僚。
ぜひともがんばってほしい。 


blog-hattori-bannai.gif



blog-hattori-akatsuka.gif


 


最強ブログ集団グーニーズ   http://gooneeds.com/

スポンサーサイト

kubo.jpg


久保 竜彦 (  くぼ たつひこ 1976年6月18日  )


日本人離れした身体能力を持ったセンターフォワード。
トリッキーなタイミングからのミドルシュートや、
アクロバティックな体勢からジャンピングボレーを繰り出す。
特に「ドラゴンヘッド」と呼ばれる打点の高いヘディングシュートは脅威である。


kubo1.jpg

 高校時代は全国的にはまったくの無名で、1995年にサンフレッチェ広島に入団。
(下写真はスラダン1巻のゴリ参照)


kubo1.gif

 1998年、アジアの大砲 高木琢也がヴェルディ川崎へ移籍したのを契機にFWに固定、
背番号10を受け継ぎエースとして活躍した。
2002年シーズン終了後、広島のJ2降格が決まり、横浜F・マリノスに移籍。
現在も活躍中。J通算266試合出場93ゴール(2006年12月30日現在)


尊敬するサッカー選手は
カール・ハインツ・シュナイダー(キャプテン翼)
という彼は人見知りが極端に激しく、
試合後のインタビューでは「よかったです」「嬉しかったです」等の単発コメントが多く、
非常にインタビュアー泣かせの一人である。
サンフレッチェサポーターはそんな久保の一言、一言に期待しており、
試合後のヒーローインタビューは固唾を呑んで見守っていた。


あるヒーローインタビューで
「今日は子供の日と言うことなんですが、来てくれた少年少女に一言」と振られ、「・・・・・勉強、頑張って下さい。」
スタジアムは爆笑に包まれた。


他にも


「将来の夢は?」
「トラックの運転手になりたいっす。」


「2002年W杯の代表になりたいとかは?」
「1999年に世界の終わりが来るのでそんな先の事は・・・」


「最近の研究だと世界の終わりはもっと先だから代表の事も考えようよ」
→「はい」


kubo2.jpg


  96年、鹿島×広島
鹿島アントラーズのサポーターに汚い野次を飛ばされながらプレイし、
PK戦で久保がPKを決めた後、
アントラーズサポーターがいるゴール裏に向かって
中指を立て「ファックユーポーズ」。
それに激怒したアントラーズサポーターは
出口を取り囲み広島のバスに向かって
「出てこい!久保」「久保を出せ!」と久保の謝罪を要求。
彼は泣きながら謝罪した・・・


 


最強ブログ集団 グーニーズ     http://gooneeds.com/

803.jpg
達川 光男  (たつかわ みつお 1955年7月13日)


広島県広島市出身のプロ野球選手(捕手・プロ野球監督、野球解説者)


ドラフトで広島に指名された時はパチンコで遊んでいる真っ最中だった。カープから指名したと挨拶の電話が入った時、後輩たちが慌てて呼びに行ったが「今、玉出よるけん」と言って台の前を動こうとしなかったという。



 update1965-img261x324-11646151319tatsukawa001.jpg


選手時代は、身体をかすってもいないボールを「デッドボールじゃ!」と激しく主張することで有名。本人は至って真面目なプレイであったと語っている。一度それが成功したのでその後は体に近い投球があれば無条件で一塁に走り出す技を会得した。内角球→一塁へ平然と走り出す→捕手と球審が呼び止める。ここからがワンマンショーの始まりである。


左腕を投球がかすめた際にとっさに右手で引掻き傷を作ったり、手の甲をつねって腫れさせて審判に主張し成功。その仕込みのためか左手をかすめたのに右手を差し出したという伝説もある。


グリップエンドにボールが当たったが球審にアピールしてデットボールが認められたこともある。当然いつものように激痛の演技をしていた。


あまりのしつこさに審判団も、協議の末「今後達川のアピールは一切認めない」と決定したらしい。


なお達川は日本シリーズでの最多死球6という記録を持っている。普段達川を見てないパ・リーグの審判には死球と判定してもらえたらしい。 


update1965-img276x339-1163042136217tatsukawa001.jpg

 捕手としての達川は「ささやき戦術」の達人として知られている。広島弁で「今日飲みに行くん?」などと全く関係ない話題を振って打者を混乱させたり、「初球はど真ん中にストレートが来る」とわざと配球を教え、いぶかしむ打者をよそにその通りの球を投手に投げさせ、見逃したところに「折角教えたったのに、もうあんなええ球来んぞ?」と煽る言葉を投げかけたり、好調な打者や主力打者に対して「悪いが一球顔の前に通させてもらうけえのう」と脅すなど、虚々実々の駆け引きを用いて投手陣を陰で支えた。


また、時には味方ピッチャーを大声でまくしたて、敵味方だけでなく観客の失笑を買うこともあった。ヤクルトの大杉勝男と対戦した際、マウンドの津田恒美のコントロールが定まらず、落ち着かせるつもりで「こいつぁー石ころじゃけぇ、安心して投げてきんさい!」と叫んだところ怒った大杉はその直後津田から特大ホームランを放つ。達川はベースを一周した大杉に「石ころだと?ふざけるな!」と一喝された上に思いきり頭を殴られている。


なお、しゃべると頭の回転が良くなり、リードが冴えてくるため、大洋ホエールズがある試合で「達川無視作戦」を実行「絶対喋るな!挨拶からするな!」とミーティングで選手に徹底したが功を奏したかは不明。


 また、彼は二度ほど試合中にコンタクトレンズを紛失したことがある。コンタクトレンズは当時は高価な品物であったため、二度とも試合は中断され、本塁付近で両軍入り乱れての大捜索劇となった。ただこれについては、長い間合いを取って投手を休ませるため、或いは時間切れ引き分けに持ち込むために達川が故意に紛失したもしくは紛失を装ったのではないか、という説もある。


 引退試合では「バットを乾かした方がよく飛ぶ」という話を聞いた達川は、自らのバットを火鉢で十分に乾かして引退試合に臨んだ。広島市民球場での試合ということもあり、打者として本塁打を狙っていたのだろう。しかし乾かしすぎたことでかえって脆くなってしまい、結局バットは折れて球も飛ばなかった。





p990722b.jpg


監督になってからも現役時代の「詐欺師」の姿勢は変わらず、新井貴浩の明らかなファールボールをホームランだと抗議し、審判だけでなくチームのコーチや選手にまで笑われたことがある。 抗議中側にいた走者に「入ってるって!なあ、お前見てどうだった?」と同意を求めたところ「どうでしょうね・・・。」と暗に否定した答えが返ってきたため「そうか!お前が言うんならファールじゃ」と踵を返してベンチに戻っている。


 


最強ブログ集団 グーニーズ    http://gooneeds.com/

solia-no1.jpg


アルフォンソ・ソリアーノ  右投げ右打ち


プロ野球選手としての経歴は日本の広島東洋カープから始まる。
同球団が所有するドミニカ共和国の野球スクール「カープアカデミー」で
才能を認められ来日。
広島時代の背番号は74


1996年はカープの二軍に在籍。成績は68試合に出場し、
打率.252、本塁打8、34打点。
その年、
彼はあまりの空腹に耐えかねて、
寮の周りにいたハトを食べようとし、
「ピースバード!(平和の鳥)」
「食べちゃーいけんじゃろ!」
と周囲に説得され、しぶしぶ納得。


1997年に一軍登録され9試合出場。17打数で2安打。
当時は身体が細かったが、このときからすでに振り回すバッティングフォームであった。
また当時は足が遅いことで有名だったためあだ名は
ロバと呼ばれていた。


1998年、球団は4万5000ドルを提示したがソリアーノは16万5000ドルを要求
(9試合しか出場していないとはいえ、外国人とは思えない年俸の安さ)。
「ドウシテボクダケミンナトチガウノ?」
彼は人種差別を訴え、年俸調停を申し立て
球団と揉め広島東洋カープを任意引退選手扱いとして退団。


その後、ドミニカに戻り野球に興じていたソリアーノの素質を
ニューヨーク・ヤンキースが見抜き契約した。


そしてメジャー昇格後の活躍は大変すばらしい。
今季、
史上最速で「通算200本塁打、200盗塁」をクリアした。
それに加えて、ボンズやAロッドなどの超一流選手しか成し遂げていない
史上4人目の「シーズン40本塁打、40 盗塁」を達成。
全米ではイチロー以上の話題の選手である。


 


【コメント】


私、リリーは幼少時代から大のカープファンであり、球場へもよく足を運び応援したものである。そして私は1997年、たった9試合しか出場していない彼の試合をたまたま見に行った。


皆さん広島の応援スタイルを思い出してほしい。


(ラッパにあわせ、スクワットしながら)
『まえだ・まえだ・まえだ・まえだ・まえだー!・まえだー!


これがソリアーノだと
『ソリアーノ・ソリアーノ・ソリアーノ・ソリアーノ・そりあのー!そりあのー!


ソリアーノの場合、この太字の部分がいかんせん応援しにくい。

| Top |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。