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穴沢努 (あなざわ つとむ、1965年8月16日 - )


1995年12月に1級審判登録され、主にJリーグで主審を務める。


不安定で不可解なジャッジが多く、
一部のサッカーファンからは苗字の「穴沢」をもじって
「アナザーワールド」と呼ばれることもある。


しかし近年はレフェリングへの信頼が増し、ファンからは高い評価を受けている。


2005年J1第24節横浜F・マリノス対FC東京戦の後半ロスタイム、
東京のFWルーカスが同じ東京のDFジャーンと激突し頭部を強打、
脳震盪で意識不明に陥る事態が発生した。


ルーカスの意識は戻らず、両チームの選手が見守りジャーンが泣き崩れる中、
ピッチ内で点滴が施され、救急車が直接ピッチに入り込んで
そのまま病院へ搬送されるなどの緊急的な措置が施されたことにより、
試合を続行できる空気はなくなっていた。


なおもロスタイムは残っていたが、
この試合の主審を務めていた穴沢は再開後すぐに試合を終了し、
その判断は関係者やマスコミから高い評価を受けた。
(またルーカスの症状はそれほど重くなく、数日後にルーカスは復帰している)


2006年J1第25節ヴァンフォーレ甲府対ガンバ大阪戦の後半44分。
甲府GK阿部謙作がプレー中に相手のファールだと勘違いして
フリーキックの助走をつけるためにボールから離れた所を
ガンバ大阪のFW播戸竜二がシュートして得点した。


しかし穴沢は
「ファールじゃないけどダメ」
と言い得点を認めず、自分独自のルールを作った。


「アナザーワールド」は今も進化を続け、
新しいサッカーのルールをも創造する。


 


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カレン・ロバート (1985年6月7日 - )


豊富な運動量が持ち味のFW。


しばしば間違われるが、姓がカレン、名がロバートである。
実父はイギリス人(北アイルランド出身)、実母は日本人のハーフで、
日本とイギリスの二重国籍者だったが、日本国籍を選択。


「日本と北アイルランドが試合したらどんな気持ちになると思う?」
というインタビューの問いに対し
「僕は北アイルランドになんも愛着とかないんで、
日本を応援しますね」
と答えている。


他にも
「どこにも行きたくない。日本が一番いい」
「飛行機がまずイヤで、ゴハンが合わないし、あと言葉とか」などとも語る。


少年時代は運動量の豊富さを生かし、守備的な位置でプレーすることが多かった。


高校は船橋市立船橋高等学校に進学し、
全国高等学校サッカー選手権大会をはじめとする高校サッカーの各種大会で活躍。


2001年度には全国高校選手権優勝、
2003年度には高円宮杯全日本ユースサッカー選手権(U-18)大会でも優勝する。


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また彼の出自や顔立ちからは想像できないが、
高校時代英語の成績は3だったという。
ちなみに彼の兄の職業は通訳である。


2004年、ジュビロ磐田に入団。
サッカーを始めて最初につけた背番号が2だったということもあり
「2が2つある」という理由で空いていた背番号の中から22を選んだ。


2005年、清水エスパルスとの静岡ダービーでプロ初得点を獲得。
31試合で13得点を挙げて、見事新人王のタイトルを手中に収める。


チームでは船ピーこと船谷圭祐と仲が良く、
2人きりで人生ゲームをやることもあるらしい。


また高校時代から平山相太らと共に、カテゴリー別日本代表で活躍。
運動量・動き出し・前線でのプレスといったことは評価されているが、
31試合連続無得点という不名誉な記録を更新中である。


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フッキ(Givanildo Vieira De Souza 、1986年7月25日 - )


本名はジバニルド・ヴィエイラ・デ・ソウザ。
彼は少年時代にアメリカのコミック
「超人ハルク」を愛読していた。
「フッキ」とはハルク(HULK)をポルトガル読みにしたもの。
命名したのは彼の母親である。


2005年 ブラジルのヴィトーリアから川崎フロンターレが獲得し、弱冠18歳で来日。


2006年 J2のコンサドーレ札幌にレンタル移籍。


第2節、水戸とのホーム開幕戦で激しいマークに合い怒りを爆発させる。
背後から河野の背中に右フックをヒットさせ、
秦には頭突きをお見舞いした。


怒りが収まらないフッキに対し監督は
「おまえが悪いんだよ。出ていけ!」
とどつき、ピッチ外に追い出した。


第11節、柏戦では審判の判定への異議で今季2度目の退場。
札幌は1人少ない不利を負ってロスタイムで逆転ゴールを許した。


試合後にはサポーターから
「なめんなよ!反省してないのかよ!」
と罵声を浴びせられた。


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幼い精神面を成長させるため、強化部長はフッキとの面談を繰り返した。
しかし主審への抗議などで警告を受けるクセが直らないため、
「怒った表情で審判に異議を唱えるから良くない。
笑いながら抗議すれば、まだ大丈夫なのでは?」
と訳の分からないアドバイスを送る始末。


結果的にはエースストライカーとしてリーグ2位の25得点と活躍した。


2007年、東京ヴェルディ1969に移籍。
今期のヴェルディは元日本代表の名波・服部らを獲得し、J1昇格を目指す。
監督との相性にも注目!


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アラウージョ(Clemerson de Araújo Soares、1977年8月8日 - )


ブラジルでプロになった当初は体重50kg程度と余りに痩せていた為、
大成するとは期待されていなかった。
しかし徐々に頭角を現し、強豪ゴイアスECに移籍するとエースとして大活躍。
ゴイアス時代の通算136ゴールはチーム歴代トップ、
『ゴイアスの至宝』『マタドール』との異名をとり、
ブラジル代表にも選出された。


2004年、清水エスパルスに入団。
この知らせを聞いた当時名古屋グランパスエイトの所属だったウェズレイが、
「あんな凄い選手がJリーグに来るのか」と驚嘆したと言う。
しかし2004年シーズンは、環境の変化に戸惑い、
シーズン途中で一時はスタメンを外され、本人にとっても不本意な1年を過ごした。


2005年1月、ガンバ大阪へ完全移籍。
この時アラウージョは映画「ラスト・サムライ」に深く感銘し、
トム・クルーズの風になびく長髪にあこがれて付け髪でプレー。

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彼はサムライが敵を斬りまくるゲームソフトをこよなく愛し、
3部作すべてをクリアした筋金入りのサムライ好きである。


ガンバ大阪に移籍してからは獅子奮迅の活躍を見せる。
重要な試合で次々とゴールを量産した。


そのパワーの源となっていたのが、意外にも吉野家の豚丼だった。
同僚のフェルナンジーニョに至っては
「あの味がたまらない」と自宅にテイクアウトするほどであった。


そしてチームをリーグ初優勝に導き、自身も33ゴールを挙げ、Jリーグ得点王に輝く。


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しかし故郷ブラジルで実父が病に倒れ、ガンバ大阪から離れることを決意。


1年でクビになった清水では話し相手もいなかったが、ガンバ大阪は違った。
チームメイト達は自分を暖かく迎えてくれた。


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宮本がイタリア料理店で開いてくれたお別れ会では
「いつか代表で対戦しよう」と約束した。


フェルナンジーニョは「ブラジルでは食べられないよ」
と吉野家の豚丼を買ってきてくれた。
甘いにおいに涙が出そうになったが、こらえて食べた。


最後の試合となった天皇杯5回戦の柏戦で2ゴールと逆転勝利に貢献。
抑えていた感情が試合後のロッカー室で爆発した。
西野朗監督と抱き合い、2人して泣いた。






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大野 豊(おおの ゆたか、1955年8月30日 )


高校を卒業後、母子家庭で苦労をかけた母の為、
地元企業・出雲市信用組合へ就職し、三年間窓口業務や営業活動をこなしていた。


1976年秋、出雲で広島カープの野球教室が開かれ、講演を聞いた大野は、
啓示を受けたようにしばらく席から動けなかった。


これを機にプロ入りを決意し、
翌年二軍キャンプで一人だけの入団テストを受けて合格。
軟式野球出身、実績も皆無という異色の経歴で、
1977年ドラフト外で広島に入団した(契約金無し、年俸は月額12万5千円)。


1年目の1977年は1試合に登板したのみだったが、
阪神タイガース戦で1/3回を投げて掛布雅之ら阪神打線にメッタ打ちにされ、
自責点5、防御率135という天文学的な数字を残した。
この試合後、大野はあまりの悔しさに泣きながら太田川沿いを歩いて寮まで帰り、
帰寮直後には観戦していた友人から「自殺するなよ」という電話があったという。


1978年、南海ホークスからトレードされてきた江夏豊に見初められ、
二人三脚でフォーム改造に取り組み始める。
1981年には、リリーフに抜擢され、8勝11セーブ、
翌1982年には10勝11セーブを記録した。


1984年からは先発に転向し、日本シリーズ制覇、1986年のセ・リーグ優勝に貢献。
1988年には13勝7敗、防御率1.70という好成績で
最優秀防御率のタイトルを獲得、沢村賞も受賞した。
時速140キロ後半から150キロの速球に加え、様々な変化球を駆使する様は
『七色の変化球』と形容され、広島投手王国を支えた。


自身の結婚式には、当時の球団オーナーである松田耕平を招待したが、
松田は用意された来賓席ではなく、身内が座る末席に座った。
関係者が「オーナー、席はあちらです」と言うと、
松田は「いや、広島の選手はみんな息子みたいなもんだ」と話した。
母子家庭で父親のいない大野は深く感動し、涙を流した。


1997年には42歳にして防御率2.85で
2回目の最優秀防御率のタイトルを獲得。


しかし翌1998年、持病となっていた左腕の血行障害が悪化し、引退を決意した。


1998年9月27日、横浜戦。
広島市民球場での自身の引退試合。
既に消化試合であったにもかかわらず球場は満員御礼となった。
3対1とカープリードで迎えた8回表、いよいよ大野の登場である。
スタンドは大野コールに沸いた。
マウンドには、三村監督が直接大野を待って声をかける。 


横浜のバッターは左殺しの異名をとる中根。
キャッチャーはシーズン初めに大怪我をしたが、
この日のためにとマスクをかぶった西山。
43歳、左腕の血行障害でもう野球のできない体であったが、
あの独特のピッチングフォームから繰り出される速球は、まだまだ健在であった。
野村・正田・江藤たちチームメイトの目には涙があふれていた。
オーロラビジョンには、涙を必死にこらえる金本の顔も。
そして迎えたカウント2-3、最後は内角低めのストレートで中根を三振にしとめた。
投げ終えた直後の大野の表情は晴れやかな笑顔であった。


試合終了後の引退式での挨拶では、
「我が選んだ道に悔いはなし。
背番号24番、そしてファンの皆様、ありがとうございました」
と涙を見せずに締めくくった。


この引退挨拶には、広島の選手やファンはもちろんのこと、
対戦相手だった横浜ベイスターズの選手・ファンも涙していた。
22年という長期にわたり広島の黄金時代に貢献してきた功労者ということ以上に、
温和で誠実な大野の人柄がいかに球団の壁を越えて
多くの選手やファンに愛され、尊敬されていたかが窺える引退式であった。





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