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大野 豊(おおの ゆたか、1955年8月30日 )


高校を卒業後、母子家庭で苦労をかけた母の為、
地元企業・出雲市信用組合へ就職し、三年間窓口業務や営業活動をこなしていた。


1976年秋、出雲で広島カープの野球教室が開かれ、講演を聞いた大野は、
啓示を受けたようにしばらく席から動けなかった。


これを機にプロ入りを決意し、
翌年二軍キャンプで一人だけの入団テストを受けて合格。
軟式野球出身、実績も皆無という異色の経歴で、
1977年ドラフト外で広島に入団した(契約金無し、年俸は月額12万5千円)。


1年目の1977年は1試合に登板したのみだったが、
阪神タイガース戦で1/3回を投げて掛布雅之ら阪神打線にメッタ打ちにされ、
自責点5、防御率135という天文学的な数字を残した。
この試合後、大野はあまりの悔しさに泣きながら太田川沿いを歩いて寮まで帰り、
帰寮直後には観戦していた友人から「自殺するなよ」という電話があったという。


1978年、南海ホークスからトレードされてきた江夏豊に見初められ、
二人三脚でフォーム改造に取り組み始める。
1981年には、リリーフに抜擢され、8勝11セーブ、
翌1982年には10勝11セーブを記録した。


1984年からは先発に転向し、日本シリーズ制覇、1986年のセ・リーグ優勝に貢献。
1988年には13勝7敗、防御率1.70という好成績で
最優秀防御率のタイトルを獲得、沢村賞も受賞した。
時速140キロ後半から150キロの速球に加え、様々な変化球を駆使する様は
『七色の変化球』と形容され、広島投手王国を支えた。


自身の結婚式には、当時の球団オーナーである松田耕平を招待したが、
松田は用意された来賓席ではなく、身内が座る末席に座った。
関係者が「オーナー、席はあちらです」と言うと、
松田は「いや、広島の選手はみんな息子みたいなもんだ」と話した。
母子家庭で父親のいない大野は深く感動し、涙を流した。


1997年には42歳にして防御率2.85で
2回目の最優秀防御率のタイトルを獲得。


しかし翌1998年、持病となっていた左腕の血行障害が悪化し、引退を決意した。


1998年9月27日、横浜戦。
広島市民球場での自身の引退試合。
既に消化試合であったにもかかわらず球場は満員御礼となった。
3対1とカープリードで迎えた8回表、いよいよ大野の登場である。
スタンドは大野コールに沸いた。
マウンドには、三村監督が直接大野を待って声をかける。 


横浜のバッターは左殺しの異名をとる中根。
キャッチャーはシーズン初めに大怪我をしたが、
この日のためにとマスクをかぶった西山。
43歳、左腕の血行障害でもう野球のできない体であったが、
あの独特のピッチングフォームから繰り出される速球は、まだまだ健在であった。
野村・正田・江藤たちチームメイトの目には涙があふれていた。
オーロラビジョンには、涙を必死にこらえる金本の顔も。
そして迎えたカウント2-3、最後は内角低めのストレートで中根を三振にしとめた。
投げ終えた直後の大野の表情は晴れやかな笑顔であった。


試合終了後の引退式での挨拶では、
「我が選んだ道に悔いはなし。
背番号24番、そしてファンの皆様、ありがとうございました」
と涙を見せずに締めくくった。


この引退挨拶には、広島の選手やファンはもちろんのこと、
対戦相手だった横浜ベイスターズの選手・ファンも涙していた。
22年という長期にわたり広島の黄金時代に貢献してきた功労者ということ以上に、
温和で誠実な大野の人柄がいかに球団の壁を越えて
多くの選手やファンに愛され、尊敬されていたかが窺える引退式であった。





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あれ?
あれ?あれ?
確か巨人で引退したんじゃなかったんでしたっけ?

大野?だっけかな?
シャア・アズナブリアン | 2007/02/05 21:05 ≫ EDIT







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